2011年11月28日月曜日

あれから

あれからまだ一月半ほどしか経っていないとは信じられません。
母は、11月のよく晴れた日に亡くなりました。

10月9日にM病院を退院して地元医の往診と訪問看護に頼りつつ自宅療養を開始しました。
今思えば3週間余りも自宅で過ごすことができたのですね。
変化が訪れたのは11月3日のこと。
ちょっと目を離した間に、ただ寝ていても呼吸が苦しい状態になっていたのです。
折悪しく祝日のため地元主治医にも連絡がつかず、2度目の救急車を依頼しました。
が、どこへ搬送するかという問題が…。
直近の救急病院といえばやはりM病院なので、救急救命士がそちらに連絡してくれたところ、受け入れを拒否されてしまいました。おそらく「延命拒否」に応じなかったことが原因でしょう。
そして地元診療所の連携病院へ連絡したところ、こちらはOKしてくれたので、中野のK病院へ。



当直の医師は、とりあえず酸素吸入と点滴をしてくれ、そして貧血がひどければ輸血をした方が良いかもしれないと。
え? 輸血?
M病院で「ムダだ」と拒否を迫られ、妹と「まるで吸血気になった気分」「血液銀行強盗にでもなりそう」と苦悶していた輸血をあっさりと「した方が良いかもしれない」というのです。
結局、問題は再出血ではなく、輸血はしませんでしたが、病院や医者によってこんなにも対応が違うのかと、びっくり。

そして、K病院に緊急入院した翌日、母のベッドのヘッドボードに記されている主治医の名前を見てまたびっくり。なんと地元のかかりつけ診療所の、元所長だった人なんです。K病院に移ったことは噂で聞いていましたが、まさか母の主治医として再会するとは。

このT先生、地元診療所時代は大変な人気で、彼女(女医さんです)の診療の日だけ待合室がやたらと混み合っていたものでした。元気だった母はむしろ父の付き添いとして顔見知りだったのですが、こんな形で再会するとは、T先生もおどろき、そして悲しんでいました。
私との面談では、「(母が)楽になることなら何でもします」と。他の診療所所長との兼任という多忙な身でありながら、母の枕元にしゃがみ込み、30分以上も母に語りかけ、母の半生の物語に耳を傾けてくれました。その時のT先生の頬を伝っていた涙が今も忘れられません。
こんな風に、80余年を生きて来た一人の女性としての母に、自らも同じひとりの女性として、温かく語りかけてくれる医師がいるなんて。回診でも顔を出したかと思うと逃げるように去って行くM病院の医師との差に愕然とします。

ただ、残念なことにこのK病院は中規模の地域病院とでもいうのでしょうか、一般病棟と療養型病棟(認知症や脳梗塞などのリハビリ患者が多い)の混合施設で、母の病室も4人部屋。夜中に叫び出す人もいたりして、とてもゆっくりと眠ることなどできません。看護士もみな親切ではあるけれど、扱いが荒っぽいときもある。ひとり部屋に移れないかと掛け合うも、空いていないとのことでした。
いくら主治医が良くても、母にとって辛い環境なので、医療面で不安はあるものの、「家に帰ろう!」と決めました。
そうした矢先、「間に合わないかもしれない!」とプッシュしていた緩和ケア病棟から「空きました」との返事が。
第一希望の病院ではないけれど、ついにホスピスに移れることになったのです。

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